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屋島の戦い〜追憶の舞〜
「静御前」「源義経」「那須与一」  

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動画の説明

第一場

静御

 平安時代末期から鎌倉時代初期を生きた「白拍子(しらびょうし)」です。白拍子とは女性が男性の装束を着て歌いながら舞う芸事、それを披露する芸人のことを指します。静は舞の名手で「日本一の白拍子」と称されていました。

 また、静は壇ノ浦の戦いなど源平合戦で活躍した源義経の妾としても知られています。

 義経が平家を滅ぼした後、彼が兄頼朝に追われる身となって、京都から西国へと、武蔵坊弁慶一行を引き連れ尼崎の大物の浦に着きましたが、一行の中に静御前も共としているは好ましくないと、悲しい別離を迎えました。静は、京都へ戻る途中で間もなく捕らえられます。頼朝は静を鎌倉へ呼び寄せ、義経の行く先を厳しく尋ねたのですが彼女は頑としてそれには応じなかったといいます。
 1186年4月8日、静は鶴岡八幡宮に於いての奉納舞を懇請され、頼朝初め多くの武将が居並ぶ中で

しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな(読み方:しづやしづ しづのおだまき くりかえし むかしをいまに なすよしもがな)ー糸を何度もたぐり寄せるおだまきのように繰り返し「静や」と呼んでくれた義経のことが恋しい。この歌には、今はもうここにいない義経が昔のように側にいてくれたら良かったのにとという寂しさや懐かしさ、愛しさが込められています。
と、今は彼らが敵とする義経を恋い慕う歌を堂々と唄いながら舞った話は、鎌倉武士の度肝を抜いた話として余りにも有名です。
この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じます。7月29日、静は男子を産みました。頼朝の側近が赤子を受け取ろうとしますが、静は泣き叫んで離しませんでした。母の磯禅師が赤子を取り上げて側近に渡し、赤子は現在の神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸由比ヶ浜(ゆいがはま)に沈められました。

愛児を殺され、生きる望みを失った静は自殺を考えましたが、母磯野を伴っていたため、それもかないませんでした。1187年8月、母の故郷である讃岐国の現在の東かがわ市小磯へ母と共に帰りました。

讃岐へ帰ってからの・・静は母と共にお遍路の旅に出た。静親子は、志度寺や八栗寺、屋島寺、六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの 菩提を弔いました。
そして、1189年3月20日、長尾寺にお参りしたとき、彼女はここで決意して母とともに出家して、髪を下ろしました。

 それからの彼女は母の縁者がいたといわれる現在の三木町に来て、山間(やまあい)の鍛冶池(かじいけ)わきにささやかな草庵を結び母とともに日夜念仏を友とした日々を送りました。数ヶ月のあと、静の侍女であった琴路(ことじ)が、はるばると京都から讃岐まで、苦難の旅の末、静親子を訪ねてきました。
1191年11月20日、母が長尾寺からの帰りに、井戸川のほとりで倒れ、そのままそこで亡くなりました。69歳でした。
 静は、鎌倉から戻って以来、病気がちではありましたが、この頃からまたその病状が悪化したのであろうか、一年余りの後、琴路の膝で眠るがごとくこの世を去ったと語り伝えられています。今から約800年前1192年3月14日、このとき彼女は24歳であったといわれています。
 静が亡くなってから7日目の夜、琴路もまた女主人の後を追うように鍛冶池(かじいけ)に入水して相果てたといいます。静御前の墓は鍛治池にあって、琴路の墓もそれに寄り添うように立っています。

今日の舞は

静御前が死後霊となり、子供を思い鎌倉の由比ガ浜にあらわれます。そして子供が埋められた場所を見つけます。

そして義経に思いを馳せ、尼崎の大物の浦で悲しい別離をしたことを回想し、舞をまいます。(仕舞 船弁慶 クセ)

義経が平家を滅亡に大活躍したにもかかわらず、こうして追われる身となったつらさ、、、源平の合戦を勝利に導いた、あの屋島の戦いの場に魂は飛びます。

 

第二場

義経 能「八島」より 装束き仕舞「八島」

義経の亡霊は、屋島の合戦で不覚にも弓を流してしまったが、みずからの名を汚すものかと命を惜しまず、敵の眼前に身をさらして取り戻したことを語りました。さらに、修羅道の凄まじい戦いに駆られる様子を見せるうちに夜が明けて、僧の夢は覚め、白波、鴎の声、浦吹く風に化して亡霊は消えていきました。

第三

那須与一

2月20日夕刻、平家方から女官が乗った小舟が現れ、竿の先のの的を射させようとした。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国武士那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。

与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏はを叩いてどよめいた

南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中 射させて たばせ たまへ。 これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふ べからず。 いま一度本国へ迎へんと おぼしめさば、この矢 はづさせ たもうな

The Dance of Remembrance
 

Violinist

Miki Aoyagi

Noh Theater Actor

Yoko Layer

 

“Noh” and “Violin” Collaboration

                                                          


The First Act

The first act is the story of a ghost named Shizuka who was a woman and a Japanese traditional dancer.

Shizuka is the main role in the first half of the Noh play “Funabenkei”.

A glimpse of a scene from the Noh play “Funabenkei”.
 

The Second Act

- A short scene from the Noh play “Yashima”.

This scene is in Yashima where the battle of Yashima was fought.

The ghost of Yoshitsune, who was a Japanese military commander, appears in Yashima.

Yoshitsune is the mail role of the Noh play “Yashima”.



The Third Act

Yoichi is particularly famous for his actions at the Battle of Yashima.

“Yoich” music by Miki Aoyagi

Original dance performance.

Yoichi stood the rock on when he released the arrow, under pressure to never make a bad shot, and brilliantly hit the target. Warriors on both sides applauded.

 

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